# オフエアの三秒

　マイクの前の私は、無敵だ。
　「——続いては、二年三組、ラジオネーム『揚げパン過激派』さんからのお便りです。『最近、購買のメロンパンが十円値上がりして、心が折れています。元気の出る曲をお願いします』。……わかります。あの十円は大きい。それでは、聴いてください。リクエスト曲です」
　ガラス越しに目配せをすると、調整室の冬木くんがうなずいて、フェーダーを上げる。スピーカーの向こう、校舎じゅうの昼休みに曲が流れ出す。私はヘッドホンの中でその出だしを確かめながら、次の原稿に目を落とす。完璧だ。今日も、放送の中の春名ひよりは完璧。
　滑舌、良し。間の取り方、良し。お便りへの相槌、自然。発声は三年の先輩に「春名の声は楽器」と言わせた自慢の腹式。マイクとの距離はこぶし一個ぶん。原稿さえあれば、私は学校でいちばん上手にしゃべれる。
　原稿さえ、あれば。
　曲が明けて、エンディングの挨拶。「お相手は、放送部・春名ひよりと」「……冬木玲でした」。木曜日の対談コーナー、十二時五十分終了。卓の上の赤いランプ——オンエア——が、ふっと消える。
　三秒。
　この三秒が、私の一週間でいちばん長い。
　一秒目、何か言わなきゃと思う。二秒目、候補が脳内で渋滞する。三秒目、どれも間に合わないと悟って、言葉はぜんぶ在庫に戻される。
　「…………」
　「…………」
　「……おつかれ」
　「お、おつかれさまです……」
　以上。本日の生身の春名ひより、発話一回、噛み一回。
　——さあ、始まりました。『言えなかったお時間』。お相手は、春名ひよりの脳内よりお送りします、DJひよりです。本日もマイクが切れた瞬間、見事に言葉の在庫が消えました。リスナーのみなさん、私が今日言うはずだった台詞は何でしょうか。正解は「三曲目の選曲、よかったです」。十二文字。言えませんでした。
　脳内には、二十四時間放送のラジオ局がある。
　現実で言えなかった言葉は、ぜんぶここで電波に乗る。聴取者は私ひとり。開局はたぶん小学生のころ。第一回の放送は、授業で当てられて言えなかった「はい」の再放送だった。人前で話せない子の頭の中で、言えなかった言葉たちが行き場を探して、いつのまにか局舎を建てた。以来、休まず放送を続けている。
　だから、放送部に入った。マイクと原稿があれば、脳内放送をそのまま現実に出せると気付いたから。実際、出せた。マイクの前の私は無敵で、マイクを離れた私は、今日も「おつかれさまです」を噛む。

　調整室では、冬木くんが機材を落とし始めている。
　彼が入部したのは去年の秋。廊下で観月部長に呼び止められて、「君、声がいい。逃がさない」と勧誘されたのは部内で有名な話だ。本人はミキサーのつまみのほうが好きそうにしているけれど、部長の耳は正しかった。冬木くんの声は、低いところにやわらかい芯があって、マイクに乗ると一段よく響く。木曜の対談コーナーが校内で評判いいのは、半分くらいあの声のせいだと思う。
　その声が、ランプが消えると「……おつかれ」しか言わなくなる。
　雑談が下手なのだ。たぶん、私と同じくらい。連絡事項は普通に話せるのに、用件のない言葉になった途端、起動しない。木曜の放送室には、原稿がないと話せない女と、用件がないと話せない男が、週に一度ふたりきりで閉じ込められる。
　防音扉の内側。学校でいちばん声の漏れない部屋に、いちばん声の出ないふたり。
　——以上、現場からDJひよりがお伝えしました。

　　　＊

　次の木曜。ランプが消える。三秒。
　「……おつかれ」
　「おつかれさまです」
　噛まなかった。進歩だ。脳内の構成作家が拍手している。

　その次の木曜。ランプが消える。三秒——のはずが、二秒目で。
　「今日の、よかった」
　冬木くんが言った。
　よかった。何が。お便りの読み方? 相槌? 主語。主語をください。脳内DJが大慌てで席を立つ。生放送に強いはずのDJは、しかし現実のスタジオには出てこられない。
　「……っ、あ、はい」
　はい、じゃない。はいじゃないでしょう。せめて「冬木くんの繋ぎもよかったです」。十三文字。在庫はある。あるのに、レジまで運べない。
　冬木くんは小さくうなずいて、機材に向き直った。マイクを下ろす前に、彼が「……よし」とつぶやくのが聞こえた。
　よし、ってなんだろう。片付けの掛け声にしては、まだ何も持ち上げていなかったけれど。

　その次の木曜は、私の番だった。
　「あの、今日の、三曲目」
　「うん」
　「……いい曲、でした」
　「うん。いい曲だった」
　会話、成立。往復二回。脳内局舎、祝賀ムード。号外が出ている。
　ランプが消えてからの三秒は、少しずつ、ただの三秒じゃなくなりつつある。グラフにしたら右肩上がり。何のグラフなのかは、集計しない。

　「あんたたち、最近いい番組してるわね」
　金曜の部室で、観月部長が機材を磨きながら言った。
　「ありがとうございます。原稿、がんばってます」
　「原稿の話じゃないんだけど」
　部長はヘッドホンを片耳に当てて、にやりとした。
　「音はね、切っても残るのよ。いろんなところに」
　機材オタクの格言は、ときどき暗号めいている。

　　　＊

　その暗号の意味を知ったのは、翌週の整理当番でだった。
　木曜の対談コーナーは、記録用に毎回録音される。当番は週替わりで、ファイルの頭出しと余りの削除をする。放送前のマイクテストとか、放送後の物音とか、本編の前後にくっついた雑音を切り落とす、地味な仕事。
　調整室のパソコンでファイルを開いて、手が止まった。
　先週木曜のぶん、本編二十分のうしろに、余りが十四分ある。
　十四分。長い。いつもは長くて一、二分——ランプが消えてから機材を落とすまでの、おつかれさまの周辺だけのはずだ。先週、録音を止める係は冬木くんだった。止めた、はずだった。
　止め忘れだ。
　頭出しの確認は当番の仕事だから、再生ボタンを押すのは業務だ。業務なんだけど。カーソルを再生バーに置いたまま、私はしばらく固まっていた。十四分の中身は、たぶん、私が先に帰ったあとの放送室だ。誰もいないはずの部屋の音。聴いていいのか。でも確認しないと消せない。消すためには聴く。聴くのは仕事。よし。
　よし、って、こういうときに言うんだな——と思いながら、再生ボタンを押した。
　ヘッドホンの中に、誰もいない放送室が流れ込んでくる。
　機材の駆動音。椅子の軋み。ケーブルを巻く音。窓の遠くで運動部の掛け声。世界の余白みたいな音がしばらく続いて、それから、冬木くんの声がした。
　『……三曲目の繋ぎ、コンマ五秒早かった』
　独り言だった。低くて小さい、マイクが拾うとは思っていない声。反省会だ。彼はひとりで、終わった放送の反省会をしている。
　『お便りの返し、もう一個拾えたな。……春名は拾うのがうまい』
　心臓が、変な音を立てた。ヘッドホンの中で名前を呼ばれるのは、教室で呼ばれるのと全然違う。耳の内側に、直接置かれる。
　『…………』
　長い沈黙。ケーブルの音。椅子がきしんで、それから、ため息がひとつ。
　『——今日も言えなかった』
　再生バーの上で、世界が止まった。
　『「今日の、よかった」じゃなくてさ。……ほんとは、春名の声がいちばんいいと思ってる。マイク越しのやつじゃなくて、ランプが消えたあとの。原稿にない声が、いちばん。……それが言えたら、あの三秒、怖くないんだけど』
　がた、と椅子の立つ音。
　『……よし。来週。来週こそ』
　録音はそこで終わっていた。
　ヘッドホンを、すぐには外せなかった。外したら、いまの十四分が現実の側に出てきてしまう気がした。耳の中だけなら、まだ夢の親戚でいられる。
　よし、の正体。あれは片付けの掛け声じゃない。号砲だ。毎週の、言う練習の。彼は毎週「来週こそ」と言って、毎週、三秒に負けている。私と、同じ側で。
　——リスナーのみなさん。緊急、ニュースです。当番組は、ただいま——ただいま……。
　脳内DJが、史上初めて、絶句した。流す曲が見つからない。二十四時間放送の局舎が、まるごと無音になる。こんな放送事故は、開局以来初めてだった。

　削除ボタンの上で、指が迷った。
　当番の仕事は余りを消すこと。でもこれを消したら、あの声はどこにも存在しなかったことになる。言えなかった言葉が消えてしまう仕組みなら、世界の誰よりも、私がよく知っている。
　本編だけを切り出して、保存した。余りの十四分は消さずに、機材の中にそのまま置いた。自分のプレイヤーには入れない。聴いたのは一回。一回だけ。それ以上は業務じゃなくなるので。

　その夜、脳内放送は復旧しなかった。かわりに、十四分の沈黙と、低い声の『いちばん』が、頭の中で朝まで再生され続けた。リピート設定の切り方を、私はまだ知らない。

　　　＊

　翌週の木曜は、最悪で、最高だった。
　「えー……続いては、二年一組の方からの、おっ、お便り……し、失礼しました。お便りです」
　噛んだ。本番で。マイクの前で。放送部に入って、初めて。
　原因はわかりきっている。ガラスの向こうの冬木くんを、意識しすぎている。今日も放送の入り前に、聞こえてしまったのだ。あの「……よし」が。意味を知ってから聞くあの音は、心拍に直接さわってくる。
　動揺が喉に絡んで、原稿の上で文字が滑る。無敵のはずのマイクの前で、私は初めて生身になっていた。
　そのとき、ヘッドホンに低い声が割り込んだ。
　「——失礼しました。いまのは機材の不調です。担当の冬木が、放送後にマイクへ謝罪します」
　アドリブだった。やわらかい芯のある声が、私の噛みをふわっとすくって、笑いに変える。スピーカーの向こうの昼休みが、たぶん少し笑った。
　「……というわけで、気を取り直して。お便りです」
　声が、戻ってくる。彼の声が踏み台になって、私の声が戻ってこられた。
　放送はそのまま無事に着地した。エンディングの挨拶。「お相手は、放送部・春名ひよりと」「……冬木玲でした」。ランプが消える。
　三秒。
　言うなら今だ。録音のこと。声のこと。私も、ということ。在庫はある。十四分ぶん、まるごとある。あるのに、レジが動かない。
　「…………」
　「…………」
　冬木くんも何か言いかけて、口を開いて、閉じて——「……おつかれ」で着地した。来週こそ、の顔をしていた。知っている。その顔の意味を、いまは私だけが知っている。

　だから、その日の放課後、私はひとりで放送室に戻った。
　防音扉を閉める。調整室の録音機材を立ち上げる。ブースに入って、椅子を引く。いつも原稿を置く位置に、何もない机がやけに広い。マイクの角度を直す。こぶし一個ぶん。深呼吸を二回。原稿はない。ないけれど、ここはマイクの前だ。マイクの前の私は——無敵とまでは言わないけれど、しゃべれる。
　録音ボタン。赤い点が灯る。
　「……これは、冬木くん宛ての放送です」
　一度きりの、聴取者ひとりの番組を、私は始めた。
　止め忘れの十四分を、整理当番の業務で聴いてしまったこと。ごめんなさい、ということ。消していない、ということ。それから——ランプが消えたあとの三秒で、私も毎週、言おうとして言えなかったことがある、ということ。言えなかった言葉の置き場所なら、私はたくさん持っているけれど、置いたままにしたくない言葉は、これが初めてだということ。
　「……私も、です。あなたの声が、です。続きは——続きを言う勇気は、まだ録音でも出ないので、月曜に。直接はもっと無理なので、せめて、ここまでは電波に乗せておきます」
　言えた。マイクの前なら、ここまでは言えた。
　「月曜の整理当番、冬木くんですよね。このファイルは余りじゃないので、消さないでください。——以上、春名ひよりがお送りしました」
　停止ボタン。
　ファイルには『木曜・対談コーナー(未編集)』と、当番が必ず開く名前をつけた。

　帰り道、脳内放送がようやく復旧した。DJはひと晩じゅう、同じ曲ばかりかけていた。

　　　＊

　月曜の放課後は、雨だった。
　放送室の前の廊下で、私は壁に背中をつけて立っていた。中には冬木くんがいる。整理当番。十分前に入っていくのを、階段の陰から見た。
　防音扉は音を通さない。
　中でいま、何が再生されているのか、廊下からはわからない。私の声が、彼のヘッドホンの中にいるのかどうか。再生されているのか、まだなのか、それとも——再生されずに消されたか。世界でいちばん声の漏れない部屋に、世界でいちばん漏れてほしくない声を置いてきた。我ながら、どうかしていると思う。
　雨の音だけが廊下の窓を叩いている。
　上履きのつま先を見る。十四分は、こんなに長い。彼が頭から順に聴いているなら、私の番組はいま、何分目だろう。ごめんなさいのあたりか。私も、のあたりか。それとも、もう。
　——リスナーのみなさん。当番組は現在、放送室前の廊下より、無音をお送りしております。お相手は、人生最大の送信を終えて電池切れの、DJひよりです。
　脳内DJの軽口も、今日は空回りしている。心拍だけが勝手に生放送を続けている。

　がちゃ、と。
　防音扉が、開いた。
　冬木くんが立っていた。ヘッドホンを首にかけたまま。耳が、赤かった。
　「……いた」
　「い、います」
　「返事」
　彼は一回、深呼吸をした。聞き覚えのある間だった。マイクを下ろす前の、あの。
　「——よし」
　小さく言ってから、彼はまっすぐこちらを見た。
　「返事は、録音じゃなくていい? ……生で」
　世界が、三秒くれた。今度の三秒は、ぜんぜん怖くなかった。
　「…………はい」
　「春名の声が好きだ。マイク越しのも、原稿のあるのも、さっき録音で聴いたのも、この前噛んだのも、全部。……『よし』って言うと言える気がして、ずっと練習してた。八か月、毎週気のせいだったけど。今日は録音が、背中を押した」
　よし、の正体が、本人の声で開示された。練習の号砲。八か月ぶんの空砲と、今日の一発。
　「……私、も」
　声が、出た。
　原稿はない。マイクもない。防音扉の外、雨の廊下で、それでも私の生身の声は、ちゃんと言葉のかたちをしていた。
　「私も、冬木くんの声が好きです。あと——声以外も、その、ぜんぶ」
　言えた。十四分かけても録音に乗せられなかった続きが、十秒で言えた。
　冬木くんは口元を片手で覆って、それから、首にかけたヘッドホンを外して私に差し出した。
　「……さっきの放送、もう一回聴いていい? 本人の隣で」
　「だ、だめです。恥ずかしさで死人が出ます」
　「じゃあ、生のほうで我慢する」
　我慢、の使い方がずるい。脳内の構成作家が、本日の名言として速攻でメモを取っていた。

　　　＊

　次の木曜。
　「——お相手は、放送部・春名ひよりと」
　「冬木玲でした。また来週」
　ランプが消える。
　三秒は——もう、来ない。
　「今日の、よかった」
　「冬木くんの繋ぎも、コンマ五秒まで完璧でした」
　「……聴いてたな、あの反省会」
　「業務です」
　マイクの切れた放送室で、生身の私たちがしゃべっている。原稿はない。電波にも乗らない。学校でいちばん声の漏れないこの部屋の、誰にも届かない会話が、いま、いちばん届いてほしいひとりに届いている。
　オンエアは終わった。
　ここからが、私たちの本番だ。
　——それでは、リスナーのみなさん、また来週。お相手は、世界でいちばん幸せな局舎から、DJひよりでした。

（了）

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## 作品情報

- **タイトル**: オフエアの三秒
- **作家**: 甘夏みこと(仮想作家)
- **ジャンル**: 恋愛(甘口)/ 学園・放送部 / 想定読者: 10代
- **字数**: 約6,067字
- **制作日**: 2026-06-13
- **制作環境**: virtual-author スキル(視点跳躍ルール適用版)/ 全自動お任せモード
- **連作**: 学校の隅っこシリーズ 第3作(第1作『お静かに、恋』/第2作『三十七度の嘘』)
